「ベッキーがどうの」
と言うもんだから、自分で調べたら不倫報道だった。私は熱烈なベッキーのファンではないから、どうしてこんなにショックを受けるのか最初戸惑った。後々も戸惑い続けた。私はふだん仕事をしているから、今は殊更忙しい時期なのでそういうのに没頭していると、段々とベッキーのことを忘れていくが、感情だけは残り、一体この石を飲み込まされたような感覚はなんなんだ? と自問するとベッキーであり、私の中でベッキーが更新された。
「世界の果てまで行ってQ」
私は特に好きな番組ではないが、子供が好きなので毎週のように見て、そうやって見させられる番組の中では比較的興味をそそられる番組であった。しかし私は
「面白いから見ろ」
と指図されるのはいただけない。私は「見ろ」なんて言われると、絶対に笑ってやるもんか、と思ってしまうのである。面白いとわかっているものを面白がるなんて、なんか馬鹿みたいだし。あと、最近はお笑いブームで、雨後の筍みたいに若手というか素人同然の愉快そうな人たちがにょきにょき画面にやってきては、自分たちの自慢の出し物を披露する。そういうのが面白いと家族も笑うから安心する。しかしたまにつまらない人もいて、そういうのにぶつかると私の妻や子供は、
「今日見た中でいちばんつまらない」
「全然センスない」
「滑ってる」
「本人たちは面白いつもりなのだろうが」
などとボロクソに言い、そういうときは気の毒なので私が笑ってあげる。もちろんそういうのが本人たちのためにはならず、侮辱していることになるのは承知しているが、幸い彼らは画面の向こうだから、私の憐れは伝わらない。憐れみ、というか、私はつまらなさの中にこそ、笑いがあるのでは? とそういう人たちをつい注意深く見てしまうのである。逆におもしろい人、漫才のうまい人はすでに傲慢さの影が見え、よく漫才などで最後に
「いい加減にしなさい、どうもありがとうございました!」
などと出し物の終わりの宣言がなされるが、もうそれが惰性なのが見え見えで、時にはため息をついているようにすら見える。「いい加減」などと予定調和のように言うが、いい加減にしてほしいのはこちらである。
それでベッキーが謝る姿を見て(私は見ていない)、色んな人が謝る行為に対して否定的であるから、私はなぜ謝るのかについて考え、それは別にベッキーは視聴者やファンに謝っているのではなく、出演番組のスポンサーや所属事務所の偉い人に向けて謝っているのではないか、と思った。それならば私のような一個人が
「なぜ...」
なんて考えるのはお門違いだから、考えるのは止した。
それでこれはあまり関係話だが付随して思い出したから書くが、私は小学五年のときに新聞委員というのに属していて、ある日
「新聞委員は休み時間に至急集まるように」
と顧問から放送が流れたが、そのとき私のクラスは体育をやっていて、それが休み時間にはみ出したから行けなかった。外のスピーカーはぼろかったから、放送なんか聞こえなかったのである。それで後から知った私が慌てて駆けつけると、
「どうしてすぐに来ないんだ」
と怒られた。顧問は女の先生で2組の担任だった。私は3組だった。チリ毛の黒髪の女で、子供を生むときに麻酔なしで帝王切開をしたら、メスの感覚が痛いではなく熱いだった、と話したことがある。その女が、私を叱りつけたのである。
ところで私のクラスには新聞委員がもうひとりいて、彼は私よりもさらに遅れて行った。彼も私並に怒られるだろうと思い、私は彼に
「怒られるよ」
と嬉しそうに言ったら、彼は体育が長引いたことを話し、そうしたら怒られなかった。そして私には
「なぜ体育が長引いたことを言わないんだ」
と、また怒った。本当は怒った調子で言ったつもりはなかったのかもしれないが、私は怒られた気持ちであった。
私はそういうぶぶんで今でも要領が悪いところがあるが、しかし教師のほうから謝罪がないことに、今でも納得できない。