意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

もうすぐ誤月

昨日今日でひさしぶりにインターネットで調べものをしていたら、出てくるのがほんとうにブログばかりで
「なんだかなー」
という気持ちになった。ブログでないものもあったようだが、みんなブログに見えた。私は比較的真面目に知りたい、と思っていたから冒頭の近況報告的なノリ、もちろんそんなのは私のブログを貶めたいという気持ちから出たウソだが、とにかくなかなか知りたい結果が得られないので、それは全部ブログが悪い、というふうに決めつけてしまいたかった。途中まではわかる、私の知っていることまでは書いてあるのである。そのくせ、最後には
「よろしければシェアしてください」
とか書いてあるから頭に来た。今までもこのシェア強要に対しては複雑な気持ちを抱いていたが、そのときは「だったらもっと有用なことを書け」と文句を言いたい気持ちになった。本当に役立つことならば、私は友達に教えてあげる。私の友達はネットとかに、疎い人間でそういう自分を
「機械音痴」
と表現していて、「機械音痴」という言葉をチョイスする時点でいかにインターネットに無縁なのかがわかる。インターネットは機械ではなく機会である。しかし私は何行か前に「ネット」と通ぶった言い方をうっかりしてしまい
「オエ」
という気分になった。そんな友達に私はネットのまとめサイトで、ボケての傑作選のページを見せてあげたら大喜びしていた。でも最初はどこが可笑しいのかわからない様子だったので、2、3解説したらコツをつかんだ。これは別に友達に笑いの感性が不足しているわけではなく、例えばこれはインターネットに書かれた文章だから、これを読む人にはぴんとこないかもしれないが、インターネットの笑いは友達同士やテレビとは、ちょっと周波数が異なるから、馴れないと笑えない。

それでその友達というのが半年くらい前に就職して、上司がネチネチ言ってくるタイプで参っているようだから、この前飲んだときに
「仕事で真剣に悩むなんておかしい」
「仕事が遅いのは本人ではなく上司の責任、怒るのは自ら無能であることのアピール」
「ミスは誤差のようなもの、絶対に「繰り返さないように気をつける」などと思わないこと」
とかアドバイスしたら、少しは元気になったが、私の言うことを真に受けるぶぶんが少し心配だった。もちろん、私が間違ったことを言っているという意味ではない。

そんなときに、私が少し前に読み、このブログでも何度か取り上げた深沢七郎「人間滅亡的人生案内」のようなブログがあればなー、と思う。今朝少し読み返したら、
「人間とは、虫とかと同じもの。それは虫と同等に並べでもよいという意味」
という具合のことが書かれていた。つまり、人間とそれ以外の生物は同じ、という言い方をすると、つい人間が跪いたり、階段を降りるみたいに小さく考えて、と捉えがちだが、逆で、虫たちの方が上で、人間が下だけれども、同じでもいいんですよ、みたいな意味である。

そういえば最近別のブログで紹介されていた「銃・病原菌・鉄」という人類の歴史の本を読んでいたら、集団が大きくなるにつれ、階級ができ、というか階級がなければ大きな集団が維持できない旨のことが書かれていて、深沢七郎はそういう立場の強い人間と弱い人間を生み出したことが人間の愚かさ、と言っていた。「愚かさ」ではなく「失敗」だったかもしれない。どちらにせよ、そうすると平等が大事みたいな人に読者は感じるから私は責任を感じるが、深沢七郎の考えはそういうスケールの小さいことではなく、立場の強い人間も弱い人間も皆、滅んでしまえという意味での「人間滅亡」なのである。それが人間そのものなのか、人間「らしさ」のどちらを指すのかはわからないが、私は後者だと思う。私は当分は、格差だとかが取りざたされる世の中が続くだろうが、どこかの時点からゆっくりと、虫だとか花だとかの生き方に近づいていくのだと思う。それはまた、人の一生についても同じである。