意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

タイムパラドクス孤児というタイトルにすれば良かった

昨日まで載せた「ワームホール」という小説はタイムパラドクス孤児というタイトルの方が良かった気がする 確か書いている当時も思っていた気がするがどうしてワームホールにしたのかは思い出せない 読み直してみるとなんとなく開かれた終わり方をしていて続きが書きたくなる ここまでいくつか小説を載せたがおよそ10年前に書いたもので改めて読み返すと当時はセックスのことばかり考えていたことがわかる 村上春樹の影響なのか だけれどもこんなにたくさん書いていて感心する


私が最近昔の小説ばかり載せるのはもう書くことがないからだ ないというより興味を失った このブログを始めたときはいつか書くことがなくなる日がくるのだろうかと思いそれについては半信半疑だったがないというのは原則的にはなくあるのである しかし私の中の何かが上書きされ書くことがかなり億劫になった やめないのは惰性が働くからである 実は書き続けるよりやめるほうが難しいのである 多くの人がやめる手段としては選ぶのは過剰に自分が下手くそだと思い込んだり過剰に上手に書けるはずだと思いこむからである 分相応をわきまえればいくらでも書くことができるのである しかしついに書けなくなる日がきた! ここまで続いたら興味を失ったという言い回しもただの注目を得るための手段だとは誰も思わないだろう しかし誰も注目なんてしないのである 私にはそれがわかっていたから日々書くことができた すてきな毎日だった


サピエンス全史を読んでいたら経験至上主義も想像の産物とあって肩の荷が下りた気がした もう新しいことに挑戦しなくてもいいのである 行ったことがない国があっても恥ずかしいのは現代だけで過去にはそんな発想をする人はいなかったそうである 私はただ自分の内面だけを見つめ続けながら生きていくつもりである


例え体がどこかへ行ったとしても