意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

十字路(1)

これは国道n号線についての散文である。


国道n号線は、埼玉県をおよそ南北に縦断する道路で、南下すれば川越や大宮を抜け東京へ、北上すれば秩父の山を通って山梨だか長野へ抜ける。どこが源流でどこで終着になるかは知らない。調べればわかるのだろうが、興味がない。言いたいのは、それが埼玉を通る国道で、そして私の家の裏を通っているということだ。今でこそ片道2車線で、中央分離帯には公園のような緑が生い茂って、主要道路のように振舞っているが、子どもの頃はオレンジ色のセンターラインで区切られただけの、ただのアスファルトの平面だった。路面はひび割れ、隙間から雑草が生えていて、なんとなくみすぼらしい。手入れの行き届いていない中年女の皮膚のようだ。歩道なんて気の利いたものはなく、かろうじて車道と歩動を区切る白いラインが引いてあるだけだった。しかもそれはひび割れから生い茂った雑草によって、しばしば寸断されている。車の方は、歩行者の存在なんか頭の隅にすら浮かばない様子で、ひたすら黒い煙を吐き出しながらびゅんびゅんと通り過ぎて行った。

幼い私は母と一緒に、度々その裏の道を渡った。渡った先には駄菓子屋があり、そこでお菓子を買ってもらうのが通例だった。それは確かに楽しみではあったが、渡る瞬間は汗ばむ指先で母の手をつかみ、左右を何度も確認し、母の「せーの!」の掛け声で、弾けるように道路へ飛び出た。少し先には歩道橋もあったのに、母はそこを渡ることは一度もなかった。面倒臭かったのだろう。

道路は少し先で二手に別れ、それぞれの行き先は微妙に違っていた。もともとは一本の道路だったが、私が生まれる前に渋滞解消のためのバイパス道路ができたのだ。そのため、後からできた方の道を、大人たちは何のひねりもなく、「バイパス」と呼び、元の道は「本線」と呼んで区別した。だが、それは逆だった。大人になった私が、ある日、道路地図で確認してみると、後からできた「バイパス」が本来のn号線で「本線」はただの県道だった。元は「本線」の方がn号線だったのだが、工事の後で変更されたのである。それでも呼び名が変わらなかったのは、途中で変えるるとややこしくなるからだろう。私はその発見を父親に報告したが、話の根本から理解できていない様子だった。

n号線は細かく言えば私の家の裏から100メートルほど離れていた。その間にも家は何軒かあり、道路に面した所には、同い歳の女の子が住んでいた。その子は車の整備工場の2階を借りて暮らしていた。他に同級生がいなかったため、幼稚園のころからお互いの家を行き来した。その子の家には、三つ下の弟がいて、一人っ子だった私は、本当の弟のようにかわいがった。時間があれば、公園だの空き地だの森だの色んな所を連れ回した。クリスマスには超合金の変身とか合体をする同じロボットをもらい、私の家に持ち寄って遊んでいたら、部品がごっちゃになった。三つも離れているから、遊んでいても物足りない時もあったが、近所に遊ぶ友達がいなかったから、贅沢言わずによく遊んだ。向こうも同じ気持ちだったと思う。たまにお互いの同級生が遊びにきた時も、一緒に混ざって遊んだ。

私と同い年の姉の方は、たまに何かの折に交流する程度になった。小学校低学年まではよく遊んだが、徐々に男女で遊ぶ内容が異なってきて、話も合わなくなった。女の子は他人の家の畑で泥を投げ合ったりはしない。たまにどうしても暇な時に、弟にくっついてきて、一緒に土砂の山で遊んだ。そこは、どこかの建設会社の敷地で、プレハブの事務所と、どこかの工事の時に削り取った土砂が重なって積まれ、山になっていた。人がくることはめったになかった。そのため、私達にとっては格好の遊び場となった。小学生でも容易に超えられるフェンスは、それ程危険性がないことを示唆していた。その山を勝手に秘密基地として、世界征服とか地球防衛とか、そういうことに興じた。姉の方は一緒に遊ぶと言っても、山のてっぺんで、n号線を走る車を眺めたりするだけで、自ら地球を守ろうとすることはなかった。私たちの遊びは暴力性が芽生えてきて、私と弟は外に向けて石を投げ始めた。私の投げた石がフェンスの向こうのビニールハウスに穴を開けた時、姉はちょっといい加減にしなさいよ、と私をたしなめた。
この姉弟は、二人とも上の歯が出ていて、頬にはそばかすがあった。おまけに姉の方は気が強く、可愛げがない。いつも薄紫とか茶色とかそういう色のワンピースばかり着ていた。クラスの中でたまに誰が誰を好きなのか、という話になるが、この女の名前が挙がることはまずなかった。
それなのになぜか私は将来こいつと結婚するだろうと思っていた。理由はわからない。例えば、幼い頃親に「大きくなったらあんた達で結婚しなさいよ」と言われたのを引きずっているとか、覚えている限り、そんなことはない。さらに言えば、私はちゃんと想いをよせる女子が他にいた。彼女は髪の毛がやや茶色く、それを一本の三つ編みとして後ろでまとめ、色白で目が二重で垢抜けている。彼女と隣同士の席になった時には、学校へ行くのが楽しくて、このまま時間が過ぎ去ってほしくないと常に思っていた。ある時、教科書を忘れた時、見せてもらうのが照れくさくてためらっていると、彼女のほうから体をくっつけてきた。血液の流れが速度を増し、動脈の一部の内壁が削られて、そのカスが心臓に詰まって死にそうになった。もう一度その感覚を味わいたくて、わざと教科書を忘れようとしたが、教師に咎められるのが怖くて、実行に移せなかったのを覚えている。
しかし、それでも私の中で覆せない前提として、彼女との結婚があった。理由はわからない。
ふと気がついた時――学校の準備が終わって風呂に入ろうとしたものの、別の家族が洗面所を占領していて入れなくて手持ち無沙汰になった時なんかに、彼女との結婚風景が、おでこの皮膚の下に滑りこんできて自動再生された。そういえば結婚するんだよな、と憂鬱な気持ちになった。私は物心ついた時から理屈っぽい性格だから、例えばそういう風景が眼前に浮かんでも、それは誰が決めたことでもないし、そもそも結婚は双方の意思でするもので、自分には彼女と結婚する意思はない。つまり今頭をもたげているこの結婚問題も、単なる思い込みに過ぎない。よって気にする必要なし。と論理的にこの問題に対する反対意見を導いたが、それでも胸の内側にぴたりと張り付いた憂鬱を拭うことが出来なかった。理屈じゃないのだ。気がつくと、私の両親と彼女の両親が「まさか幼馴染で結婚まで漕ぎ着けるとはなあ」などど穏やかに談笑する場面が浮かんだり、n号線沿いに建てる新居の間取りを考えたりしていた。

タイムパラドクス孤児というタイトルにすれば良かった

昨日まで載せた「ワームホール」という小説はタイムパラドクス孤児というタイトルの方が良かった気がする 確か書いている当時も思っていた気がするがどうしてワームホールにしたのかは思い出せない 読み直してみるとなんとなく開かれた終わり方をしていて続きが書きたくなる ここまでいくつか小説を載せたがおよそ10年前に書いたもので改めて読み返すと当時はセックスのことばかり考えていたことがわかる 村上春樹の影響なのか だけれどもこんなにたくさん書いていて感心する


私が最近昔の小説ばかり載せるのはもう書くことがないからだ ないというより興味を失った このブログを始めたときはいつか書くことがなくなる日がくるのだろうかと思いそれについては半信半疑だったがないというのは原則的にはなくあるのである しかし私の中の何かが上書きされ書くことがかなり億劫になった やめないのは惰性が働くからである 実は書き続けるよりやめるほうが難しいのである 多くの人がやめる手段としては選ぶのは過剰に自分が下手くそだと思い込んだり過剰に上手に書けるはずだと思いこむからである 分相応をわきまえればいくらでも書くことができるのである しかしついに書けなくなる日がきた! ここまで続いたら興味を失ったという言い回しもただの注目を得るための手段だとは誰も思わないだろう しかし誰も注目なんてしないのである 私にはそれがわかっていたから日々書くことができた すてきな毎日だった


サピエンス全史を読んでいたら経験至上主義も想像の産物とあって肩の荷が下りた気がした もう新しいことに挑戦しなくてもいいのである 行ったことがない国があっても恥ずかしいのは現代だけで過去にはそんな発想をする人はいなかったそうである 私はただ自分の内面だけを見つめ続けながら生きていくつもりである


例え体がどこかへ行ったとしても

ワームホール(5)

わたしはセックスなんてしたことないし、実はどういう行為なのかもうっすらとしか知らない。友達に経験した人はまだいなくて、隣のクラスの山本さんが、家庭教師の大学生とカーセックスをしたというのを聞いたくらいだ。山本さんと言われても、顔も知らないのでリアリティゼロだ。つまり、わたしとセックスの距離はそんな感じなのだ。わたしは少しのどかすぎるのかもしれない。
実際性欲というものもよくわからない。仲良しのしーちゃんは、片思いしてる野球部の高瀬くんの事を考えると濡れると言った。えーそれやばいじゃんみたいな返事をしてその場は合わせるけど、あーちゃんはどう?とか聞かれたらどうしようかと、内心ひやひやしている。だから、そっち系の話になると、ていうか英語の清田って絶対ヅラだよね、みたいな話をしてごまかす。
溝川の太い腕を思い浮かべる時、わたしは濡れているのだろうか。イマイチわからない。前に友達とレディース系の雑誌を読んだ時は「店長に下着を脱がされると、もうアタシのあそこはぐちょぐちょだった」なんて書いてあって大騒ぎしたけど、溝川にされたらわたしもそうなってしまうのだろうか。でもそういう事を考えると、自分が孤児であることを思い出して、泣きそうになる。わたしはお母さんの産道を通ってこの世に出てきたわけではない。だから、もしかしたらセックスとかそういうことが普通の子と同じようにできないのかもしれない。それは他の孤児も同じだけど、わたしの場合はお母さんに子宮そのものがなくて、産道は閉じられている。他の孤児は万が一の計算違いで本当はちゃんとした手続きで生まれた可能性も残されているが、わたしは100%ありえないのだ。もしかしたら、わけのわからない穴を通ってこの世にやって来たのは、本当は世界でわたしだけなのかもしれない。わたしの寂しさを紛らわせて自殺を防ぐために、世界に1000万人なんて嘘をでっち上げたのかもしれない。
わたしはたまにお母さんの立場になって考える。お母さんは丁度今のわたしくらいの歳の時に、癌になって子供を産めなくなった。それなのに突然わたしが現れて、遺伝子的にはあなたの子、と言われて、どんな気がしたのだろう。よく一緒に暮らすと言ったと思う。お母さんは、美容師になることは諦めて今は実家にいるけど、5年前におじいちゃんが死んで、生活は苦しいはずだ。お母さんは惨めじゃないだろうか。わたしを引き取ると決めた自分を憎んでいないだろうか。

ちなみにタイムパラドクス孤児が大量発生した頃、世界中のお金持ちがこの現実を嘆き、大規模な基金が設立された。孤児を引き取った里親には、そこから毎月補助金が支払われる。その事を知った時、わたしはものすごくほっとした。
わたしは2年になるとすぐに溝川のメアドをゲットして、毎日大量のメールを送りつけようになった。教師とアドレス交換なんて、いけない行為なのだろうか。でもそんな校則はない。私はわざわざ生徒手帳を開いて確かめたのだ。あるのは後ろめたさだけだ。ただその後ろめたさが心地よくて、同時に多分他に溝川とメールしてる子はいないので、わたしはついテンションが上がってしまう。わたしは悲劇の申し子ぶって、溝川に色んな話をする。
もしかしたら、子供とか産めないかもしれない。ある時そんなことを書いて送ったら「大丈夫。孤児でも子供産んだ人いるから」みたいな返事がきた。それが気に食わなくて「わたしはその辺の孤児とは違う。わたしのお母さんは処女だ。生まれるはずのない子供なんだ。そんなわたしがまともに出産とか、恋愛とか、そういうことできるわけない」と猛スピードで書いて返信した。最後に「先生はバカだ。なんにもわかっていない」と付け加えた。
先生はそれっきり返事をよこさなかった。5分、10分と時間が過ぎて行く中で、最初は先生が何によって手が離せなくなったのかについて思いを巡らせた。職員会議が始まったとか、脳みそが空っぽの保護者から電話がかかってきて怒られてるとか。もし怒られてるなら、少しは優しくしてあげよう。けれど、夜になってもメールはこなくて、わたしは自分の送信メールを読み返して、いくつかの誤字を見つけながら、どこかまずい箇所でもあったのかと考えてみる。もしかしたら思ったよりも重い話に受け止めて、どう返信すべきなのか悩んでいるのかもしれない。だとしたら見当違いだ。「ばーか」とか送って、自分が単に構ってほしいだけなんだとアピールした方がいいのかもしれない。でも、本当にそうなのかわからないし、単にわたしがうざいだけという可能性だってある。それなら続けて送るのは傷口を広げるだけだ。

結局わけがわかんなくなって、携帯を放り投げてベットに寝転んで天井の壁紙のシュールな模様を眺めてみるが、10秒で飽きる。投げた携帯を拾って、半ば無意識の動作でメールをセンターに問い合わせてみる。当然来てるわけもなく、大げさにため息なんかついてみる。バカみたいとか思う。そのうちご飯の時間だよ、て呼ばれて、お風呂に入っていつもより早い時間に寝てしまう。先生にはきっと彼女がいて、今はその人とご飯を食べてて、多分この後ラブホテルにでも行くのだ。単なる妄想だけど、そう決めつけてしまうといくらか心が楽になる。わたしはもう大人なんだから、こうやって自分の気持ちくらいコントロールできる。とか言いながら、携帯は充電を満タンにして、枕元にスタンバイさせておく。わたしはおめでたい女なのだ。

でも溝川先生がその夜に考えていたのは全く別の事で、わたしを教祖として、新興宗教を立ち上げる事だった。わたしのお母さんが処女と聞いて、ぴんと来たらしい。次の日の朝学校へ行くと、玄関で待ち伏せされた先生に準備室に連れ込まれ、わたしが現在に蘇ったキリストなんだと教えられた。これからインターネットを使って信徒を増やして行くんだとノートパソコンを開いて見せてくれた。真っ黒な画面の真ん中に十字架があって、裸の女がはりつけにされていた。徹夜でこのページを作ったらしい。その時になってようやく気づいたが、今朝の先生は眼鏡をかけていなかった。むき出しの目は血走っている。

先生がこの宗教をただのお金儲けで始めたのか、本当にイっちゃったのかがわかるのは、結構後になってからだった。

〈了〉

ワームホール(4)

わたしにタイムパラドクスについて教えてくれたのは、理科の溝川先生だった。先生は白衣と眼鏡の典型的な冴えない理系男で、授業もゆるく、一部の男子がガスバーナーで机に焦げ目をつけて遊んでいても熱心に注意しなかった。そのぱっとしない溝川先生も、授業の合間に話が脱線した時にするブラックホールやビッグバンの話の時には、目を輝かせた。ただでさえややこしい話なのに早口でまくしたてるため、そのギャップもあいまって生徒のほとんどはドン引きしていた。
一年の最後の授業の時、時間が余って調子に乗った先生は、いつもの宇宙の話から発展してワームホールと時間旅行に話をした。そこからタイムパラドクス孤児についての解説が始まると、わたしは興奮してその話に耳を傾け、向かい側で騒ぐ男子にガンを飛ばして黙らせた。自分の出自に関する話なんだから当然だ。お母さんは当事者のくせに、わたしの出現に関してはほとんど興味がないらしく、わたしの質問にはほとんど答えられなかった。業を煮やして図書館で本を借りてみたりしたが、蟻んこみたいな字で専門用語が並び、数ページで嫌になった。病院で会う研究員に訊くという手もあったが、なんだか怖い。研究員は多分、わたしの体や頭の中を調べるのは、人類発展のためだから、なんでもありだと思っているのだ。わたしの質問も「被験者は自我について興味を持ち始めた」と捉えられ、かえって彼らの興味をそそってしまうだろう。そんな風になるのは彼らの思う壷みたいで嫌だし、他の孤児たちに迷惑をかけそうな気がするのでやっぱり聞けない。一応フォローしておくけど、研究員の人たちはみんな親切だ。だが、やはりその優しさは根本的な出発点で本来のものとはずれていて、わたしは百パーセント警戒を解く事ができない。そういう疑心暗鬼が対人恐怖になりかけて、ああこうやってぐれていくんだなあと思っていたわたしに、光を差してくれたのは溝川だった。わたしは授業が終わると友達に適当に嘘をついて最後まで理科室に残り、溝川に自分が孤児だと打ち明けた。

それからわたしは時間があれば、溝川の元を訪れ、タイムパラドクス孤児について語り合った。そして世界中には孤児はおよそ1000万人いることや、最初に確認されたアメリカ人の孤児がこの前結婚して子供を産んだこと(つまり最初の孤児は女)、ワームホールについても、大雑把な図にして解説してくれた。
先生も、実際のタイムパラドクス孤児を見るのは初めてで、わたしと話をする時は、どの授業の時よりも早口になってよく舌を噛んだ。おそらく口中血だらけにしながら、それでも少しでも時間を無駄にすまいと、涙目でわたしにしゃべり続ける。かわいい。時には、研究員と同じような、わたしの人格後回し的な質問を繰り出すが、教師の本能がわたしの心の怯えを察知するのか、すぐに冗談を言って和ませてくれる。やっぱりこの人は違う。て、わたしが露骨に暗い顔をしているからバレバレなんだけど。
そうやって溝川を好きにならない理由がどんどんなくなって、わたしはいよいよ本気で溝川に抱かれたくなってくる。溝川は髪も寝ぐせが立ってて、眼鏡のフレームもえんじ色のべっ甲みたいな素材でお前それどこで見つけて来たんだよ的なセンスだが、白衣の下は意外とマッチョで、準備室で並んで座っている時にそれに気づいたわたしは、反則だろ、と思った。それを指摘したら「トライアスロンしてるんだよね」となんでもなさそうに言った。もっと自慢気に言ってもらわないと困る。どう見ても似合わない。想像できない。代わりに想像するのは、その太い腕がわたしの肩を抱く場面だ。指が等間隔に開いてわたしの肩甲骨に食い込み、血管が浮いている。わたしは少し離れた位置から、西日の差す理科室で実験テーブルに押し倒されるわたしを眺めている。制服をたくし上げられそうになるのを必死で食い止めながら「ちょっとやだ、やめてよ」なんて悲鳴を上げている。白々しく。

ワームホール(3)

わたしがタイムパラドクス孤児であることを教えられたのは、小学校の卒業式から2日経った後だった。お母さんとしては特にこの日に教えるとか決めていたわけではなく、なんとなく話の流れから打ち明ける形になったみたいだ。それまでわたしはいわゆる普通の母子家庭として育ってきたので、父親がそもそも存在しないという事実にまずショックを受けた。それまでは離婚してどこかで生きているだろうみたいな設定だったので、わたしなりに気を遣ってあまり突っ込んで聞かないようにしていた。それが根底から崩れてしまったのだ。だが一方で、これは友達に気楽に話せる内容なのか、とか現実的なことを考えたりした。今でもタイムパラドクス孤児は、たまにテレビで取り上げられたりするので、ちょっとした有名人になった気がした。

だが、この件でお母さんは研究員にこっぴどく怒られてしまった。本当は本人に孤児であることを打ち明けるタイミングも、事前に相談しなければならなかったらしい。わたしは症状は出ないけれども生まれつき脳の一部に疾患があり、そのため定期的に病院へ行っていたのだが、それも結局のところ、タイムパラドクス孤児の成長過程を調査したいだけだったようだ。学会では相変わらずワームホールと孤児の関係について意見が乱立し、どれも自分の仮説を裏付けるデータの収集に必死だった。私の脳波やカウンセリングの受け答えも、彼らを一喜一憂させたのかもしれない。今ではワームホールは完全に閉じられ、全ての実験は中止されている。学者たちは孤児の発生になんらかの法則性を見出して、実験を再開させたいのだ。そのためにまず、孤児たちと普通の子供の差異が必要だ。あるいはこちらへ出現する前の記憶だ。わたしは記憶障害と騙されて、何度も生まれてから最初の記憶について聞かれた。様々な質問をされたり絵を書かされたり、おそらく催眠をかけられたこともあるだろう。けれど期待していたものは何も得られなかったに違いない。全てのタイムパラドクス孤児は、記憶を持たずに世界を行ったり来たりしている。言い換えれば、記憶を持ってしまった人間は、ワームホールを通ることができないのだ。

ワームホール(2)

およそ30年前、とある物理学者がワームホールについての論文を発表し、ある一定の条件を満たせば、地球上でもワームホールが発生することを予言した。”一定の条件”はそこまで容易に揃えられるものではなかったが、すぐに複数の研究機関が飛びつき、程なく人工のワームホールの発生に成功した。このニュースは一斉に世界中に広まり、ニュースキャスターや新聞が「ワームホールをくぐればタイムトラベルが可能」と大々的に報じられた。日本でも丸の内のサラリーマンが「いつの時代へ行ってみたいですか?」の問いに大真面目に答える光景が、夕方のテレビ番組に流れた。
けれど実際学者達が作り出した「穴」はかなり微小なもので、人なんかとても通れはしない。実験用のラットとかそういうレベルではなく、10のマイナス何乗とかの素粒子規模の話だ。タイムトラベルなんて夢のまた夢、と人々の熱は一気に冷めたが、研究者たちはそんなことに構うことなく、その小さな小さな穴に、光とかニュートリノとか、色んなものを突っ込んで、貴重なデータを収集していった。

研究者たちがもっとも興味を持ったのは、やはりタイムパラドクスについてだった。簡単に言うと映画「バックトゥザフューチャー」みたいに過去に行って、親の結婚を阻止した場合、子である自分の存在は消えるのか、という疑問だ。あの映画では、主人公の体は消えかけるが、つまりそれは書き換わった過去に対応して、現在もそれに合わせようと働きかけるからである。
小さな穴を通るだけでも、バタフライ効果みたいに世界全体に影響を及ぼす可能性だって十分にあるから、実験は極めて慎重かつ限定的に行われた。そうして数ヶ月間様々な実験と観測が行われ、ひとつの結論が下された。タイムパラドクスは存在しない。過去においていくつかの物質を破壊したが、それらは現在においても消える事なくは存在し続けたのである。つまり破壊された時点で別世界へ枝分かれしたのか、あるいは観測している過去そのものが、私達の住む世界とは別のものなのかもしれない。学者たちは早速パラレルワールドに関しての仮説をどんどん立て始め、タイムパラドクスは古いSFの象徴として扱われるようになった。

ところが。
それと並行して世界中では、ある異変が起きていた。かなりの数の乳幼児が突然行方不明になったり、逆に捨てられる事件が起きたのである。これらは単発で起きれば大した事件にはならないが、全世界で同時多発的に発生したので大騒ぎになった。各国の警察は、この不自然すぎる現象に、何かしらの大きな意図があると疑い、国同士で連携を取りながら、大規模な捜査を行った。新興宗教や、テロ、これだけの規模なら、インターネットは使われているだろう。模倣犯の数も相当数あるに違いない。しかしいくら調べても、有力な手がかりどころか、犯人の足取りすら掴めない。子供達は本当に消えるようにいなくなり、また、何の脈絡もなく現れた。いなくなった子供は、死体も出てこない。さらに身元不明の子供の親も全く見つからない。
現実離れしたスケールの乳幼児の異常事態は、親達を不安のどん底に落とした。謎の犯人に連れ去られるならと出産を諦める夫婦が激増し、世界的に出生率が下がった。また、水子霊の仕業だと、詐欺まがいの霊感商法が大流行した。
そうした中、次第にこれらの異常は、ワームホールが関係してるのではないかと疑われるようになった。その頃には、産婦人科の保育器から数人まとめて乳児が消えたり、人が容易には入れないような場所から幼児の死体が発見されたりと、いよいよ超常現象のような色味を帯びてきていた。もはや打つ手のなくなった各国首脳は、藁にもすがる思いで、ワームホール研究の中止を求めた。
結果として、どうやらタイムパラドクスは、ある年齢以下の人間には影響を及ぼすらしい。一時的にワームホールを閉じてみると、確かに翌年から事件の数は激減した。乳幼児とワームホールには何らかの関係があるのだ。そうなると、出現した乳児の体や脳みそを調べたり、カウンセリングや催眠を施して、なんとかパラドクスの痕跡を見つけたい。しかし、際立った変化は見られず、ある程度成長した状態で見つかった子供でも、自分の親の顔すら覚えていなった。

ワームホール(1)

わたしが発見されたのはお母さんのアパートで、その時お母さんは18歳で、アルバイトをしながら、美容師になるための専門学校へ通っていた。その日は日曜日で家にいて、お昼前に起きて、たまった洗濯物を洗濯機に突っ込んでから部屋に掃除機をかけ、それがひと段落したところで空腹を覚えたので、パスタでも茹でようと鍋を火にかけた。半分残って輪ゴムで止めてある乾麺を取り出そうと、戸棚の引き出しに手をかけたところで、物音に気づいた。見ると部屋の真ん中に赤ん坊がいる。わたしは放置してあった掃除機のコードを右手で掴み、左手でおしゃぶりをしていたという。完全に素っ裸だったので、女の子であることがわかった。とりあえず泣いてはいなくて、ちゅぱちゅぱ音を立てながら天井を眺めていた。
お母さんはそれが人間の乳児だということはすぐに認識できたが、状況が飲み込めず一歩も動けなくて、とりあえずさっきまで芸能ニュースを見ていた携帯で実家に電話した。対応した母親は案の定まともに取り合わず、そのうち口論となった。夢中になって喋っているうちに、わたしを蹴飛ばせるくらいの距離まで近づいた。「だって、現に目の前にいるんだから」そう言ってお母さんはしゃがんでわたしの横腹の肋骨を手でつついた。幽霊であることを完全否定したかったのだ。だが、その途端わたしは大声で泣きだし、お母さんは後ろにのけぞって尻もちをついてしまたった。母親が何か声を上げたが、その時はもう携帯は手の中にはなかった。

タイムパラドクス孤児はその頃には一般にも認知されていたので、警察に通報すると1番にその可能性が疑われた。今や子どもの失踪と言えば、誘拐よりもパラドクスの方が多いのである。すぐに専門家の集団がやってきて、わたしの体とわたしが現れた部屋が丹念に調べられた。お母さんもくたくたになるまでわたしが現れた時の様子とか、同じことを何度も説明させられた。
やがてわたしは寝返りがうてるようになる直前の生後5、6ヶ月の乳児だということがわかり、全身にアザがあり、左腕の骨にはひびが入っていた。お母さんの自作自演で、単に虐待を隠そうとしていることも疑われたが、お母さんに子宮がないことから、それは早い段階で否定された。
やがて遺伝子鑑定で、わたしと親子であることもわかった。お母さんは子供なんか産めないのに、そういうことになっちゃうのはめちゃくちゃだけど、パラドクスだからなんでもありなのだ。報告をした細身で頭の禿げた研究員は、事実を並べるだけで「大変ですねぇ」みたいな人間味を見せてこちらに擦り寄ることはなかった。資料を取り出して、この子供と戸籍上も親子になって一緒に暮らすか、孤児として施設に預けるかは自由に選べる、と事務的に説明するだけだ。突然現れた子供といきなり親子として暮らせるかどうかはケースバイケースで、ならない場合でもきちんとした施設に預けられることになっているらしい。
お母さんは当たり前のようにわたしと親子になることを選んだ。そして学校をやめて、実家に帰りそのまま今に至る。