意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

学校は言葉の墓場か

今日はナミミの高校の入学式があり、校長をはじめとする来賓とか父母会とか、在校生新入生にいたるまで、みんな通りいっぺんの挨拶をしていたのでとてもうんざりした。

私の会社では以前週に一回朝礼があって、そこで毎回持ち回りで司会を行い、司会者はちょっとした小話をするのだが、みんな
「車の運転を気をつけよう」
「インフルエンザが流行ってます。気をつけましょう」
とかそんなのばかりなのでアホらしくなり、所長に
「朝礼なんてやめましょう。朝礼の時間があれば電話の一本もかけられます」
と提案したら、
「しかしあれはセレモニーだから」
と退けられ唖然とした。ちなみに私は水筒に乳酸菌飲料を入れると、内壁が溶けて銅中毒になりますよ、とか比較的メリハリの効いたことを言ったりしていたから、所長は私に期待していたのかもしれない。しかし社内体制が刷新したドタバタで週一の全体朝礼はなくなったので結果的に良かった。

入学式は文字通りのセレモニーだから、無難な言葉の連続は仕方ないというか、無難な言葉こそ宝、という場なのかもしれない。しかし、それならば、学校とは言葉の墓場なのだろうか。校長も父母会長も
「夢や目標を持って、継続的に努力しろ」
とおっしゃるが、本当のところは無難な判断に終始しろ、そのためには自分の考えを捨てるのがいちばん、と言っているように思える。勝手な想像だが、私の子供時代は「仲間」とか、「他人に迷惑をかけない」とか、そんな言葉がもてはやされていた。まだその時点では「夢」や「目標」も瀕死であるが、生きていたのかもしれない。いや、もう死んでいたか。

式の最後のほうで学年主任を名乗る体格のいい男が原始人のような、最低限の助詞しか使おうとしない独特のしゃべり方で、
「今日の入学式は、ひとりの欠席者、遅刻者もなく素晴らしい」
と褒め称えたが、結局素晴らしいのは努力とは関係のないところだ。確かに新しい環境にかける意気込みが生徒を定刻に会場に向かわせたのかもしれないが、いくら意識が高くても病気になるときはなるし、電車だって遅れる。つまり全員がこの場に揃ったのは単に運が良かっただけだ。

そういったことに「矛盾」を感じるのは、この広いホールの中で自分だけだろうな、と思うとそういう感じ方をする自分の方がおかしいというか、子供っぽい気がしてアレだった。とても広いホールで、二階席もあるホールだった。和服の人もいた。